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徳川家康の影武者説 リンク集

徳川家康の影武者説(とくがわいえやすのかげむしゃせつ)、は江戸幕府を開いた徳川家康の生涯は通説で考えられているものと異なり、人生のいずれかの段階で別人と入れ替わったという俗説。入れ替わった段階をいつととらえるかによって説の内容は異なるが、いずれの説もアカデミズムによって検討される段階に達していない。この項では明治時代の地方官であった村岡素一郎が唱えた桶狭間の合戦直後に入れ替わったという説を主に扱う。

松平広忠の嫡男で、幼名は竹千代。元服して松平二郎三郎元信と名乗った人物は、正真正銘の松平(徳川氏)の当主である。桶狭間の戦いで今川軍の先鋒として活躍したのも、この竹千代(当時は元康)である。しかし元康は桶狭間の戦いで今川義元が死去した後に独立したが、数年後に不慮の死を遂げた。そして、その後に現れる家康は、世良田二郎三郎元信という、全くの別人が成り代わったものであるという説を村岡が着想したのは、林羅山の著書[1]『駿府政事録』の1612年(慶長17年)8月19日の記述である。村岡は以下のように引用している。 「御雑談の内、昔年御幼少のとき、又右衛門某と云う者あり。銭五貫[2]にて御所を売り奉るの時、九歳より十八、九歳に至るまで、駿府に御座の由、談られ給う。諸人伺候、衆皆これを聞く」 (雑談のうち、昔(家康)幼少の頃、又右衛門某というものが居た。銭五貫で御所(家康)を売った時、9歳から18、9歳まで駿府にいたことを語られた。) 当時、松平広忠は今川義元の庇護を受けるため、息子の竹千代(家康)を駿府に人質として送ろうとしていた。しかし、広忠の妻田原御前の父である田原領主の戸田康光が今川家と松平家を裏切り、竹千代は織田信秀のもとへ売られた。後に信長の庶兄である織田信広が今川軍に敗れて捕らえられたため、その信広と交換されて駿府に送られた。その様子を家康が語ったものとされている。 村岡は戸田家が竹千代を売ったことを否定しているという。しかし、康光を始めとする今川家を裏切った戸田一族は今川家に滅ぼされており、否定したという戸田家の人物は不明である。

家康は大坂夏の陣で戦死してその後の1年間は影武者であったとする説もある。この説によると、真田信繁(幸村)の奮戦により恐慌状態に陥った家康は自害すると叫んで部下に誡められ駕籠に乗せられ逃亡中に、後藤基次が家康の駕籠を槍で突き刺し、重傷を負った家康は堺の寺に運ばれそこで死亡したとするものである。家康の代役として小笠原秀政が選ばれ、その後正史で家康が死んだ時期まで影武者として家康を名乗っていたと言われる。[4] 堺市の南宗寺に「家康の墓」[5]と称されるものがあり、その説を裏付けるものとして語り継がれている。南宗寺に徳川秀忠・家光が上洛した際に自ら参拝していることや、東照宮[6]が勧請されていたこともその傍証とされることがある。

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